いま出来ること
 
  
 Miyabi
 
 
   
 April, 2009
  


 父が入院している病院へ毎日通う様になってから、雨が好きになりました。
 空気が乾燥している寒い季節の早朝は外気がピリピリと肌を刺すようでしたが、小雨が降ると寒さも外気も和らぎ自然の優しさに包まれている感覚になりました。草木も、生き返った様に見えました。
 桜の季節が過ぎた小雨の日、病院へ行く道筋にあるイチョウ並木に目を遣ると、小さな可愛らしい葉が顔を覗かせていました。雨が降る度にイチョウの幼い葉が一段と成長して行くのを見ると、心が休まりました。

 病院近くの川沿いの桜並木は、桜の名所として知られていました。転院して父が少し持ち直した時から、お花見に皆で出掛けるのが目標となりました。川沿いは綺麗に舗装されているので、車椅子での花見が可能でした。
 しかし一ヶ月も経たないうちに、父はベッドから降りて車椅子に座る事さえ出来なくなっていました。
 お寿司が食べたいと言っていた父は一口も口にする事無く、青葉の季節に旅立ってしまいました。

 母がくも膜下出血手術後四ヶ月で退院して来た時、“いま出来ること”を先延ばしにしないで精一杯やって行こう、美味しい物・母の大好物を存分に食べて貰い母が喜ぶ場所へは労をいとわないで一緒に行こうと、切に思いました。自分の事は倹しくしいつも後回しにして夫や子供の為に尽くして来た母への、ご褒美の時がやって来たのだと思いました。父が叶えられなかった分まで母に味わって貰う事は、亡き父の思いでもあると感じました。
 
 専業主婦だった母は買い物でデパートへ出掛けると、最上階のお店でちょっと贅沢な食事をして来るのを楽しみにしていました。相席で向かい側に座った中年男性から、「奥方達は豪勢な飲食が出来て羨ましいですな」と言われた時の事を、母は愉快そうに話していたものでした。
 退院後リハビリに通っていた頃は小さなおにぎり一個をやっと食べていた母も、二年位すると食欲が出て来ました。出前の寿司も一人前食べられる様になったので、体調が良い日にデパート最上階の会席料理のお店に足を運び、奮発してみました。器も味も盛り付けも一流のコース料理を母が時間をかけて全て食べ終えた時は、嬉しさ半分驚き半分でした。味覚が衰えてきたとはいえ、美味しい物や雰囲気で食欲は変わるものなのだと改めて学びました。それからは一ヶ月に一回の割で食べ歩きをするのが、母と私の楽しみになりました。
 握り鮨が食べられず小さく切った刺身を美味しそうに食べている今の母を見ると、あの頃が夢のようです。

 父と一緒に見る事が出来なかった川沿いの桜並木のお花見も、母の退院後数年で実現しました。
 花見の季節には自宅から車で三十分以内の桜の名所を訪ねていましたが、最近は車椅子で行ける近くの公園や学校になってきました。美しい自然に触れ笑顔になる母の顔を見ていると、私の気持も優しくなれます。
 出来る事が年々減ってきている母の“いま出来ること”を大切にして、これからも続けて行こうと思っています。



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