ぶん
文ちゃん     西田昭良    April, 2009
 


 昔、私が中学生の頃、大学出たての数学教師・高橋文雄、愛称“文ちゃん”は、授業の冒頭、いつも10分ほどの雑談をするのだった。
 「僕の初恋は旧制高校の一年の時でね、ラブレターを出したんだけど返事がなくて、一週間も眠れなかったよ・・・」という身の上話から、「川端康成の“伊豆の踊子”を読んで、急にその舞台となった湯ヶ島へ行きたくなってね、この前行って来たんだ、素晴らしい所だったね」という近況、そして、「最近、戦没学生が書き残した“きけわだつみのこえ”を読んだけど、人間ってね、死を覚悟した時、突如、持てる能力が開花して、皆んな若いけど、偉大な哲学者や文学者になるもんだね。尤もそれには日頃の読書や勉強が大切だけど・・・」とチクリと胸元を刺す話まで、雑談は多岐にわたった。

 “文ちゃん”の話が面白くて、授業をサボる生徒がいなくなったどころか、にわかに読書熱が教室内に蔓延した。
 国語や歴史の授業などは受験本位の無味乾燥なもので、心に残る教科書なんて一冊も無かったが、“文ちゃん”に触発されて読んだ多くの本から得た感動や知識、教訓は数知れず。

 後年、同窓会で再会した“文ちゃん”は言った、「あんな授業をしていたもんから、皆んなを優秀校へ進学させてやれず、すまなかったな・・・」と。「いや、とんでもないです。お蔭で単なる点取り虫人間にならず、こうして立派な大人になりました」と、昔の生徒たちは口を揃えて感謝したものだった。

 教師との本音の心に触れ合った時、子供たちは、人は如何に、どう生くべきかを学び取るものである。
 私という建造物の基礎工事を担ってくれた“文ちゃん”、夭折(はやく)に天空の星になってしまったが、今でも最も会いたい恩師である。
 

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